天皇の皇祖神 天照大神

天照大神 格数:30格 =0の格数は上昇運も強ければ、下降する時も大きく下がる。 

            急転直下の数字。今が幸せでも大きな不幸に見舞われる事が

            ある凶数。

 格数では天照大神は良い名前ではありません。0の数字は「水」すべてが流れてしまう。定まらない。天皇家の祖先神なんだけどね。

 

如是我讀・・・・

 

・皇室にとって非常に重要とされる八注の神々「神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃賣・大御膳都神・辞代主」で天照大神は入っていない。本来の皇室の祖神は”高皇産霊神”であり、天照大神は後から祖神として祀り上げられたのではないか。

菅原孝標女更級日記” ー天照大神を年念じ申せといわれても「いづこにおはします神 仏にかわは」などさはいへど(天照大神がどこにいらっしゃるか 神なのか仏なのかすらも分からなかった)と書かれている。

藤原倫寧女 右大将 藤原道綱の母”蜻蛉日記” ー陸奥に下る人からの河伯ー 川の神・河童の霊験で雨が止みそうだという歌に答えて「今ぞしるかはくときけば君のため あまてる神の名こそありけれ」(今分かりました 河伯というのは天照大神の名前だったのですね)

柿本人麻呂天照大神の事を”天照らす日女(ひるめ)の尊”(天照大神とは呼んでいない)→天照大神の名称が出来ていなかったのでは。

・アマテルムカツヒメ=天の彼方に遠ざかり向こうの津にいる姫(彼岸にいる神)=死に体

 

※10世紀の平安貴族達は天照大神の存在を殆ど知らなかった 或いは知っていても水神や河童という程度の認識しかなかったのではないか。大神(おおみかみ)→大水神(おおみかみ)

大化の改新以降、天智天皇までの時代で只の一度も天照大神伊勢神宮を祀ったりしたよいう事実は無かった。伊勢神宮どころか天照大神も存在していない。 神宮の創建は文武天皇の時代文武天皇2年(698年)12月29日と「続日本紀」記されている。

 

天照大神が祀られている「伊勢神宮内宮」→伊勢は彼の世に最も近い土地

 ・景行天皇の時代 「僻」と書いて「イセ」と読ませていた。

 ・伊勢する=無かった事にする。

 ・伊勢人は僻事す=道理に外れている。風變わり →「伊勢物語」の題名の語源

 

仮設

 天武・持統天皇の時代になり歴史書を作るために豪族側の立場からまとめられた神話や伝承を天皇の立場から書き直した。(天皇にとって”利”になるように改作(嘘)で創作された)

 古事記日本書紀は政治的創作物だった。持統天皇が自分の姿をオーバーラップする形で”天照大神”をクローズアップさせた。(律令國家における宗教的権威の基盤作りとして、そして伊勢神宮の造営と祭祀が完備される。其れまでの伊勢神宮は男性神「天照=饒速日命」が祀られていたのではないか?

 また明治天皇が突然伊勢神宮公式参拝を始める。明治政府の政策として天照大神が皇室や日本人全ての祖神として祀り上げられるようになる。明治天皇公式参拝の約3ケ月後東京招魂社(現靖國神社)が創建された→政治的意図が働いていたか?

 

 元々は”天照神”(男)”大日霊貴”(女)に分かれていたのではないか? 天照が太陽神で大日霊貴が太陽神の妻であり、天照を祀る巫女=日の巫女(ヒミコ)だった。

 持統天皇の時代に天武天皇(現人神)の日女(巫女)としての持統天皇が次の天皇になるにあたり天照(あまてる)から天照(あまてらす)大神としての物語を造り上げた。

 

→672年の壬申の乱に際して天武天皇伊勢神宮天照大神を望拝(たよせにおが)んで勝利した。即位後大来皇女として伊勢に送り神宮の職制を整備した。

 持統天皇は690年に大神宮御遷宮 692年豊受大神宮遷宮を実施し20年に一度の「式年遷宮」を定める。

 

時の権力者によって事実は捻じ曲げられる。何時の時代も同じ。

令和の今・・・コロナ禍の日本。東京は4度目の緊急事態宣言の発令となる。政府に踊らされるのではなく。私達は歴史を振り返り今どのように行動しなくてはいけないのか考えなくてはいけない。自分の目でしっかり觀る事。徹底的に調べる。頭を使うことが重要ですね。

 

事実をいくら積み上げても、真実には至らない ー司馬遼太郎