廻り巡るよ、天照大神は周る。

本日7月10日は新月(朔月)舊6月1日。新しい月の始まりですね。

 

如是我讀・・・・

 

昨日は天照大神は当初全く尊敬される神ではなかったと謂う事を書きました。

天照大神伊勢神宮内宮に鎮座するまで約60~90年かけて24ケ所巡る事になります。

 

元々伊勢神宮は「祠」→「渡遇宮」(垂仁天皇時)→五十鈴宮(神功皇后時)→伊勢大神の祠(継体天皇時)→伊勢の祠(敏達天皇時)→神宮(用明天皇即位以降 6世紀後半)→大きな社が出来るのが天武・持統天皇

 

日本書紀記載

 崇神天皇6年 天照大神と倭大国魂の二注の神を並べて天皇の大殿の内に祀っていたが、此等の神の勢いを恐れて共に住んでいられなくなった。天照大神豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祀り神籬を建てた。日本大國魂神(倭大国魂神)を渟名城入姫命に託して祀らせたが渟名城入姫命の髪は抜け痩せ細り祀る事が出来なかった。

 垂仁天皇25年 更似還りて近江國に入りて東美濃を廻りて、伊勢國に到る。時に天照大神倭姫命に誨へて曰く 是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり 傍國の可怜し國なり 是の國に居らむと欲ふとのたまう。故、大神の教の随に其の祠を伊勢國に立てたまふ。

 

仮設

 崇神天皇は百姓の流離・背叛が起こったから天照大神等を遷座したのではなく、二柱の神を大殿から放逐した為には百姓達が叛、或いは憤って離反した。崇神天皇の其の有無を言わさぬ追放に対して一般民衆が怒りの声を上げたのではないか。

 

倭姫命世記 ー天照大神がどの様なルートで60~90年かけて24ケ所巡ったか

 

 1.崇神天皇即位6年 倭の笠縫邑に磯城の神籬を立てて天照大神又は草薙剣を遷し

   まつる皇女 豊鋤入姫命をして斎き祀らしむ 大神神社摂社 檜原神社

 2.崇神39年 但浪の吉佐宮に遷幸(京都府宮津市 元伊勢籠神社

 3.崇神43年 倭國 伊豆加志本宮(奈良県桜井市 与喜天満宮

 4.崇神51年 木乃國 奈久佐濱宮(和歌山市 日前・國懸神宮

 5.崇神54年 吉備國 名方濱宮(岡山市 伊勢神社)

 6.崇神58年 倭國 彌和乃御室嶺上宮(奈良県桜井市 大神神社

 ※此処から、倭姫が天照大神に付き添う

 7.崇神60年 大和國 宇多秋宮(奈良県宇陀郡 阿紀神社

 8.其の後 佐佐波多宮(奈良県宇陀郡 篠畑神社)

 9.崇神64年 伊賀國 隠市守宮(三重県名張市 宇流冨志禰神社)

 10.崇神66年 伊賀國 穴穂宮(三重県伊賀市 神戸神社)

 11.垂仁2年 伊賀國 敢都美恵宮(三重県伊賀市 都美恵神社)

 12.垂仁4年 淡海國 甲可日雲宮(滋賀県甲賀郡 頓宮)

 13.垂仁8年 淡海國 坂田宮(滋賀県坂田郡 坂田神明宮

 14.垂仁10年 美濃國 伊久良河宮(岐阜県本巣郡 天神神社)

   15.其の後 尾張國 中嶋宮(愛知県一宮市 酒見神社)

 16.垂仁14年 伊勢國 桑名野代官(三重県桑名郡 野志里神社)

 17.鈴鹿國小山宮、或いは奈其波志忍山宮

 18.垂仁18年 伊勢國 阿佐加藤方片樋宮(三重県津市 加良比乃神社)

 19.垂仁22年 伊勢國 飯野高宮(三重県松阪市 神山神社)

 20.其の後 伊勢國 佐佐牟江宮(三重県多気郡 竹佐々夫江神社) 

 21.垂仁25年 伊勢國 伊蘇宮(三重県伊勢市 磯神社)

 22.其の後 伊勢國 瀧原宮三重県度会郡 瀧原宮

               →伊勢神宮遥宮と呼ばれている別宮

    此の間に伊勢國 矢田宮に遷幸という説も有る。

 23.伊勢國 家田田上宮 ー伊勢神宮 神田

    此の間に伊勢國 奈尾之根宮に遷宮という説も有る。

 24.垂仁26年 伊勢國 五十鈴宮に遷宮 ー伊勢神宮内宮

   また其の後、垂仁27年 志摩國 伊佐波登美之神宮を造り摂宮となした。ー三重

   県志摩郡 伊雑宮とされる。(現在 志摩國一宮)

 また、猿田彦神社伊勢市宇治浦田町)祭神:猿田彦命・大田命 →垂仁天皇の御代、倭姫 神宮御鎮祭の地を求めて巡歴され猿田彦大神の裔 太田命之を迎え、五十鈴川上の霊域を献り伊勢神宮の創建となった。其の子孫 宇治土公 玉串大内人に任じられ累代奉仕した。

 

■何故、24ケ所も巡幸し又、その資金は何処から出ていたのか?

 古代の産鉄地、河流・湖沼の水辺で「スズ(錫)」の採取地を廻っていた。または遊女(巫女の古い形態)として資金を捻出していたのではないか。(当時は天照大神は殆ど力の無い「神」だから朝廷を追い出され場所を遷しても歓迎されなかった)

 最終的に伊勢の地に落ち着いたのは、伊勢の地が水銀、スズ(鉄)の産地として必要だった。

 

※豐葦原瑞穂國=葦が豊かに繁っている稲穂の實り豊かな國(日本)=「葦」の根から採れる鉄によって鉄器を造り、稲田を開墾した。また水中に含まれる鉄分は稲の生産を促進させる。葦原は稲を育てるのに最適地。伊勢は「スズ」を多く生産できる。→五十「鈴(スズ)」川

猿田彦は此の地の地主神ー「塞の神」「塞=サヒ(鉄)」の神だった。此の地が必要だった天皇家猿田彦から伊勢の地を奪ったのではないか? →伊勢神宮外宮は豊受大神は実は猿田彦の怨霊を鎮めるために作られたのではないか。

 

壬申の乱で此の地の状況を熟知した天武天皇は「鉄」「水銀」を自分のモノのするために伊勢神宮を整備し此の地を支配したのではないか。

 

吉野裕子氏は「伊勢神宮大和朝廷にとっての常世、しかも皇室専用の神界だった」

※伊勢は「常世」=黄泉の國だった。

 天皇家は「御杖」としての女性を天照大神に「貢奉」っている。天皇の代替わり毎に置かれた「斎宮」(いつきのみや)。正しくは「斎王」と謂う。その斎王の住居が斎宮と呼ばれていた為に斎宮の主人という意味から「斎宮」となった。其の嚆矢は豊鋤入姫命、次は倭姫命。伊勢に置ける祭祀は物部氏の主導により祭宮の忌部氏が行っていた。しかし蘇我氏が実権を握ると中断されてしまった。そして天武天皇が即位すると、斎王の派遣が復活した。