きのふ今日とは思はざりしを

如是我讀・・・・

    →高田崇史『毒草師』より

 

伊勢物語

「昔ありける男」という一人の主人公の元服から終焉に至る生涯を綴った、ほぼ架空の物語

内容は在原業平の歌を中心に、その他の歌も交えながら物語化した。

900年頃「古今和歌集」編纂の頃原型が成立した。以後「後撰和歌集」編纂の950年頃に大体の形ができた。(正式な成立年代、作者は不詳)

源氏物語狭衣物語などによれば、当時の人々は「在五が物語」「在五中将の日記」等と呼ばれていた。在五は業平の事。

 

業平が執筆、編集したのではないかとも言われているが、江戸時代中期の契沖や賀茂真淵らは業平説に反対。理由は、第十一段に、 

忘るなよほどは雲ゐになりぬとも 空ゆく月のめぐりあふまで ー橘 忠幹「拾遺集」が収められいるが、この歌は業平が没後の詠われたので、業平が執筆、編纂したのは無理ではないかというもの。

 

伊勢物語と名付けたのは

 ・藤原継継蔭の女(三十六歌仙の一人)の父親が伊勢守であった為に伊勢と呼ばれた。この女性が「伊勢物語」の一部を増補したと言われている為。

 ・この物語の非常に重要な部分が伊勢斎宮と業平の密通事件が、此の物語の中でも重要ば場面であるという意味で「伊勢物語」とよばれるようになった説もある。

 

 業平が「伊勢物語」を書いたのか? わざと時代をずらしたり、誤魔化したりした歌を入れる事で自身の思い出を語る。自分の過去をまるで架空の物語のようなふりをして残した。そして後世の人々が其れを補足するような形で『男』が業平と特定できるような物語を挿入したのでは。

 

在原業平=天16格(土)心23格(火)艮18格(金)仁11格(木)全34格(火)

     全格34は凶数で分裂悲運数で災難が降りかかる。努力を積み重ねても最終的

     には躓く成功しても安泰ではない。

     成功運としては大吉の強い力を持っています。学術技芸の知的才能を発揮す

     る事で好機を得る。希望達成の強運を引き寄せる。

     成功運に強運を持っているのですが、土台となる基礎運は短氣を起し、自我

     心を強くすると周囲との軋轢多く孤立。神経衰弱となり急変転落となる。慎

     重な行動が必要となる。社会適応力も明朗な性格で人に好かれるが努力の割

     に報われない事がある。精神的に不安定で焦るとトラブルに発展するとあり

     ます。

 

伊勢物語は・・・・

 伊勢人は僻事す=伊勢人は間違いを起す →伊勢物語は「僻事物語」

 風俗歌でも「伊勢人はあやしきものをや」→「妖しき物語」

 と当時の人々に思われていたかもしれません。

 

業平が二条の后(藤原高子)を攫って逃げる話 →伊勢物語第六段 『鬼一口』

其の時、業平が詠んだ歌

ー白玉か何ぞと人の問ひしとき 露とこたへて消えなましものをー

 高子との事件が原因で藤原基経達に捕まった業平は都を追放されて、武蔵の國から下総の國の境の隅田川までやって来て詠んだ歌 

ー名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやー

 

其の場所に架かったのが「言問橋

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言問団子が有名ですね。

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伊勢物語古今和歌集のリンク

伊勢物語

ー世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからましー

表の意味:この世の中に桜さえなければ、花が咲いたの散ったのという事を氣にしない

     で生活できる。そうなればどんなにのどかに暮らせることだろうか。(それ

     ほどに桜の花は私の心を惹き付けるという花の美しさを逆説的に表した歌)

桜=櫻→木偏に貝が二つ、そして女『ニ貝(階)の女が木(氣)にかかる』=貝の首飾りを身に着けた女の人という意味。上記の歌も「桜」を「女」として読むと・・・女性さえいなければ、この世はもっと心穏やかに過ごせるのに・・・と謂う意味にもとれる。

古今和歌集

ー年経ればよはひは老いぬしかはあれど 花をし見ればもの思ひもなしー

意味:自分はすっかり年老いてしまったけれど、この桜の花を見ていれば、何の憂いもない事よ

詞書:染殿后の御前に、花瓶に桜の花を挿させたまへるを見てよめる 前 太政大臣

 

此のニ首は「桜」で繋がっています。

 

 古今和歌集の歌は、前太政大臣藤原良房天皇家に自分の血縁をどんどん送り込み、他の氏族たち(業平たち)を悉く追い落としてしまった男。

染殿后は良房の娘、明子。これをふまえて意味を考えると、明子が文徳天皇中宮となり惟仁親王(後の清和天皇)を産んでくれた。自分(良房)は老いてしまったが『桜=明子』を見ていれば、これからの藤原家に関して何の憂いもないことよ。

 この事を鑑みて伊勢物語の歌を讀むと・・・・この世に『桜』=『明子』さえいなければのどかに春を迎える事ができる。明子批判、つまり藤原氏批判。

 古今和歌集の撰者は紀貫之紀友則たち、こちらも良房によって朝廷の片隅に追いやられた人々。

 

在原業平は毒殺された?

 藤原氏に楯突いた業平を藤原氏は安穏と暮らさせ平和な死を迎えさせなかったのではないか。

 清和天皇の皇后と駆け落ちまでしている業平を親切にするほどお人好しではなかっただろう。

 多分、「冶葛」で殺されたのではないか。奈良県正倉院聖武天皇崩御後、光明皇后によって献納されています。初め献納された冶葛は約14kgあった。756年に献納。其れ以降百年たらずでわずか880g程度まで減ってしまった。

 伊勢は不吉の名称→伊勢は此の世のモノではない この話は、伊勢にしておこう(この話はなかった事にしよう〈彼岸の話にしてしまおう〉)

藤原氏側は業平の怨霊を恐れ、鎮魂の意味で業平の物語を編纂し「伊勢物語」と名付けたのではないか。