『峠』の先に見える “美ヲ済ス” 事

峠 ー司馬遼太郎 著 より

 

司馬遼太郎の企図は『侍とは何かについて考えてみる』ことだった。

河井継之助の生涯を素材に選んだかは越後長岡藩の非門閥家老の行動に侍としての一典型をもとめたからである。

 

河井継之助 1827年1月27日生まれ

空13格(火)心24格(火)艮31格(木)仁20格(水)全44格(火)三碧木星

 全体的に吉、凶が極端に出るドラマチックな人生。最終的には凶の流れが強くなり波乱の結果となる場合が多い。明るい性格で誰からも好かれる。強い行動力でメキメキと實力を發揮、事業の成功を引き寄せる。鋭い感覚を持つが成功を急ぐあまり強引な行動をとり周囲の人と争ったり、孤立しやすくなる。氣力と誰にも負けない才能で人生の荒波を乗り越える事ができるがもう一息のところで残念な結果となる。學術の才能高くその力を發揮できる。

 

 幕末期に完成した武士という人間像は日本人が生み出した多少奇形であるにしても、その結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。

 サムライという日本語が幕末期から今尚世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではないく類型のない美的人間ということで世界がめずらしかったのであろう。また明治語のカッコワルイ日本人がときに自分のカッコワルサに自己嫌惡をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおしてかろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。

 

 河井継之助は德川封建体制が崩壊せざるを得ない状況を明確に見定めていた。このような開明派は薩長側にもいなかった。継之助はほかならぬ幕末変革期に遭遇し、そこで彼のもつ可能性をフルに發揮し歴史の過流にのみこまれてしまった。

 

 継之助は降伏して妥協し長岡藩を保つことをせず、藩を地上から消してしまう道をたどる。思想としてつらぬかず美意識に転化してしまう。武士道に生きただけです。

 状況を見とおすことのできる目をもった男が見えない場にみずからをおすことのできる目をもった男が見えない場にみずからをおかなければならなかったことの必然を『峠』のなかで描いている。

 

 武士道の倫理に殉じ、いかに美しく生きるかといった美意識にまで煮詰めている。そのことによって陽明學徒としての継之助の生と死がより鮮明な肉付けを得た。

 

■心は万人共同であり 万人一つである

 どの人間の心も一種類しかない心に差はない。この場合心とは精神・頭脳のこと

 人間には心のほかに氣質というものがある。賢愚は氣質によるもの、氣質には不正なる氣質と正しい氣質とがある。氣質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲物欲にとらわれ心が曇り、心の感応力が弱まりものごとがよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。

 

 學問の道はその氣質の陶冶にあり、知識の収集にあるのではない。氣質がつねにみがかれておれば心はつねに鏡明のごとく曇らずものごとがありありとみえる。その鏡明の状態が孟子のいう良知ということ。

 

 継之助は書物に知識をもとめるのではなく判断力を研き行動のエネルギーをそこに求めようとしている。學問は行動すべきものである。その人間の行動をもってその人間の學問を見る以外に見てもらう方法がない。

 

 人は立場によって生き立場によって死ぬ。それしかなく、そうあるばきだ。

 

 人は原則をもたねばならぬ。原則によって生きている。人間でも上等な人間にはある。親鸞道元日蓮良寛、利休、信長、謙信にはみな原則がある。他の人間には明快な原則がない。

 

 情熱とはなにものか。それは好惡です。好きかきらいかそういう情念です。理性や打算ではない。

 

 孟子は言う。「いかに威武ある存在からおどされても心も屈せず、いかに貧乏しても志を変えたりせぬ男をえらい男とうのだ。」

 

 西郷は言う、。「軍略家には臆病さがなければならないぬ。臆病さから知惠がうまれるものであり、人なみに恐怖もせぬ者から智謀は湧き出さぬ。」

 

 戦争は単に戦争であってはならない。大いなる政治構想と目的が必要であろう。

 

 人間成敗(成功不成功)の計算をかさねつづけてついに行きづまったとき、残された唯一の道として美へ昇華しなければならない「美ヲ済ス」それが人間が神に迫り得る道である。

 

■継之助の言葉

「天下になくてはならぬ人となるか、あってはならぬ人となれ。沈香もたけ、屁もこけ。牛羊となって人の血や肉に化して仕舞うか豺狼と為って人類の血や肉を啖い尽くすかどちらかになれ」

 

・松蔵が主人継之助を偲んで詠った歌

 「なき君の 今は時の忍(しのば)れて みたまを祭る けふの悲しさ」