仁義禮智

孟子曰く、

 

 人間のは生命以上に望むもの(義)があり、死以上に憎みきらうもの(不義)がある。仁は人間の本来持っている心であり、義は人間の必ずふみ行くべき道である。

 

 つまらぬ部分(口や腹)ばかりを熱心に養うものは、結局つまらぬ人間となり、大切な部分(精神)を熱心に養うものは偉大な人物となるのだ。

 

 心のはたらきは考える事であるから、心でよく考えさえすれば、物の道理は分かってくる。

 

 天爵とは、仁・義・忠・信の四德や善を行う事を楽しんで倦まない実践力があり自然に人から尊敬される人。

 

 聖人の道を學ぶ者は、必ず仁義の道をもって眼目としなければならぬ。

 

 自分の持っている本心〔四端(よつはのめばえ)の心〕を十分に発展させた人は、人間の本性が本来善である事を悟るだろう。

 四端の心=人は生まれながらに持っている四つの善。其の四つの善なる心が発展して仁・義・礼・智になる(孟子性善説

 仁・義・礼・智の端緒(きざし)となる心=四端之心

■生まれながらに持ってる四つの心は、

 惻隠之心 →憐れみの心

 醜惡之心 →惡を憎む心

 辞譲之心 →良し惡しを見分ける心

 

 人間の本性が本来善である事を悟れば、やがて其れを与えてくれた天の心が分かるであろう。自分の本心〔四端の心〕を大切に保存し、其の本性を損なわないように育ててゆくことが、つまり天に仕える道になるのである。只管天命に順って、唯一筋に自分の身を修めて静かに天命の至るのを待つのが、天命を尊重する道である。

 

 人間として成すべき正しい道に力を尽くして死ぬのは、〔いわゆる人事を尽くして天命を待つ〕正しい天命なのだ。

 

 天地間の理法は生まれながらに皆自分の本性の中に備わっているはずのものだ。我が身に反省してみて、一点の偽りも無く眞心に欠けるところが無いような境地になれば、人生此れより大きな樂しみはない。また〔其処まで到達していない人でも〕大いに努力して思い遣りの眞心を他人に推し及ぼしてゆけば、〔やがて私心は消えて、自ずから仁の德は完成されるものだ。〕此れこそ、仁を求める一番手近かな方法である。

 

 羞恥心(はじるこころ)というものは、人間にとって極めて大切である。恥じればこそ、人間は勉強もし、進歩もするものだ。

 

 ただ欲に眼をくれず、德を尊び義を樂しんでさえおれば、必ず平然としておられます。

 人間は特に學ばなくとも、自然によくできるという能力(即ち良能)があり、彼是と考えなくとも自然に分かる知恵(良知)がある。

 

 善、即ち仁義を行いたいと思ったら、外でもない、ただ此の親を親しみ目上を敬う心を廣く天下の人々に推し及ぼすだけの事である。

 

 してはならぬ事をしない。望んでならぬ事を望まない。君子の道は唯、其れだけの事である。

 

 およそ德行、・知恵・技術・才智に秀でた人は、概ね非常な災患の中にあって〔發奮して努力するので〕、其の才能が磨かれたからである。

 

 人を教育する方法

  程よく降る雨が自然に草木を養育するような遣り方である。

  本人の德性を完成させるという遣り方。

  本人の才能を十分に達成させるという遣り方。

  ただ単に質問して答えるだけという遣り方。

  間接的に教えを受けて自分で修養させるという遣り方。

 

 仁という言葉は人(じん)という意味であり、人間らしくあれという事である。

 義という言葉は宜(ぎ)という意味であり、是非のけじめをつけるという事である。この仁と義との二つを合わせて、此れを人の道(道德)という。

 

 父子の間の仁、君臣の間の義、賓主(客と主人)の間の礼、賢者nとっての知性、天道にとっての聖德、此等の道德は誰しも常に望み通りに行くとは限らないから、此れも天命である。しかし、此等の德は人間固有の本性に根ざしてるものであるから、有德の君子は天命だといって諦めずに、あくまでも努力を続けるのだ。

 

 音樂の眞髄は、此の孝悌二つの道を歌い奏でて樂しむ事にある。此のように孝悌の情愛を音樂に盛り込んで樂しんでいると、自然に此れを實行したいという氣持ちが盛んに湧き上がってくるものだ。そういう氣持ちが心の底から湧き上がってくれば、どうして止めたとて止められようか。もはや止められぬとなると、音樂のリズムにのって思わず知らず手拍子足拍子で踊りだすように、〔毎日の行いも樂しみに浸りながら、自然に孝悌の道に叶うように〕なるものだ。