人間の本性はみな善だ。

孟子曰く、

 

 人として誰しも有り難い」と思うのを善(善人)と謂い、此の善が眞實に自分のものとなっている(言動行動に表れる)のを信(信人)と謂う。又、此の善が申し分なく充實しているのを美と謂い、美が内に充實して外まで光輝(ひかり)を放つのを大(偉大)と謂い、偉大で自然に天下の人々を感化するようになると、此れを聖と謂う。聖であって、其の霊妙な作用(はたらき)を人智では測り知る事ができないようになると神(しん)と謂う。

 即ち、人物には、此の善・信・美・大・聖・神の六つの段階が有る。

 

 およそ詩〔經〕を説くには、一つ一つの文字にとらわれて、一句の意味をとり損ねてはならぬ。また一句の意味にとらわれて、全体の意味(作者の眞意」をとり損ねてはならぬ。つまりは、自分の心で作者の眞意をよく酌み取って説いてこそ、初めて詩が分かるというものだ。

 

 〔國を治めるのに〕大事なのは、唯、仁義だけです。仁義を無視して利益を第一に考えてはいけない。

 

 人間の心の中こそ、此のはかるということが特に必要なのですが、〔物をはかるのと違って〕最もはかりにくい難しいものです。

 

 注意せよ、注意せよ。自分から出たことは、必ず自分に振り返ってくるものであるぞ

 

 心のはたらきである志というものは、氣力を左右するものであり、氣力は人間の肉体を支配するものである。だから、志がまずしっかりと確立すれば、氣力は其れにつき従ってくるものだ。

 あくまで志を固く守って、氣力を無駄に損なってはならぬ。

 

 言葉は心の表れだから、きき方によっては、其の人の心の底がよく見抜けるものだ。

 

 一方に偏った言葉は、其の人の心が何処か覆われているので、物の一面だけしか見れないと判断する。取り留めの無い出鱈目な言葉は、其の人の心が何か惑わされて締め括りが無いからだと判断する。邪な言葉は、其の人の心が道理から外れて正しくないからだと判断する。言い逃れの言葉は、其の人の心が行き詰まっての苦し紛れからだと判断する。

 

 表面だけは仁政にかこつけながら、本當は武力で威圧するのが覇者である。身につけた德により仁政を行なうのが王者である。

 

 哀れみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、惡を恥、憎む心は義の芽生えであり、譲り合う心は礼の芽生えであり、良し惡しを見分ける心は智の芽生えである。人間に此の四つ(仁義礼智)の芽生えは生まれ乍らに具わっている。

 

 仁は人の最も安心して住める家であり、義は人の通るべき正しい道である。

 

 是非善惡を明らかに辨えなければ、到底我が身を誠にすることはできない。斯様に誠こそは〔人の天性から出るものゆえ〕天の道であり、万事の根本である。この誠をば十分に発揮しようと思い努力するのが、つま人間の道なのである。

 

 人物〔の善惡〕を見分けるには、瞳に勝るものは無い。瞳は正直なもので、其の人の心の中の惡を掩い隠す事ができないからだ。

 

 万事に恭敬な人は決して他人を侮らないし、自ら倹約(慎まやか)な人はなるべく他人から貪り取ろうとはしない。

 

 仕えると謂う事の中で、何が一番大切かと謂えば、親に仕えることが一番大切だ。守ると謂う事の中で、何が一番大切かといえば、自分の身を正しく守って不義に陥らない事が一番大切だ。

 

 世間の人の口が軽いのは〔自分の言葉に対して〕責任感が無いからだ。

 

 仁の眞髄は親によく仕える事。即ち考である。義の眞髄は兄によく仕える事、即ち悌である。智の眞髄は、孝悌と謂う二つの道の大切さをよく知って、しばしも此の道から離れぬ事であり、礼の眞髄は、この孝と悌との二つの道を調節して立派に整える事である。

 

 大德の人と謂われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純眞な心を失わずに持っているものだ。

 

 あらゆる事物の道理に明らかで、人の履むべき道をばよく心得た人で、その行爲は心に深く根ざしている義から自然にあらわれ出たものであり、決して努力して無理に仁や義を實行したのではなかった。

 

 昔にさかのぼって、古の聖人や賢人を論じて友達とするものふだ。だが、如何に其れ等古人の作った詩を吟じ、其の著わした書物を讀んでも、其の作者の人物を知らないで一体よいものだろうか。だから、更に進んで其の古人の活動した時代を論究(よく批判して研究)していかねばならぬ。此れがつまり『尚友』即ち、『遡って古人を友達とする』ということなのだ。

 

 人間の本性みな善だ。ー本性が自然のままに発露すれば、人間は誰でも必ず善をなすはずである。人間なら惻隠の心、即ち他人の不幸を哀れみ悼む同情心を誰でも皆持っている。羞惡の心、即ち惡を恥じ憎む正義感は誰でも皆持っている。恭敬の心、即ち長者(目上)を慎み敬う尊敬心は誰でも皆持っている。是非の心、即ち善惡を見分ける判断力は誰でも皆持っている。

→惻隠の心は仁の德の発露、羞惡の心は義の德の発露

 恭敬の心は礼の德の発露、是非の心は智の德の発露

 

 天が万民を此の世に生み下し給うた時、全て事物があれば、必ず其処には一定の法則をあらしめた。かくて民は此の不易の常性に順えばこそ、皆此の美わしの德を好むのだ。