人間の本性はみな善だ。

孟子曰く、

 

 人として誰しも有り難い」と思うのを善(善人)と謂い、此の善が眞實に自分のものとなっている(言動行動に表れる)のを信(信人)と謂う。又、此の善が申し分なく充實しているのを美と謂い、美が内に充實して外まで光輝(ひかり)を放つのを大(偉大)と謂い、偉大で自然に天下の人々を感化するようになると、此れを聖と謂う。聖であって、其の霊妙な作用(はたらき)を人智では測り知る事ができないようになると神(しん)と謂う。

 即ち、人物には、此の善・信・美・大・聖・神の六つの段階が有る。

 

 およそ詩〔經〕を説くには、一つ一つの文字にとらわれて、一句の意味をとり損ねてはならぬ。また一句の意味にとらわれて、全体の意味(作者の眞意」をとり損ねてはならぬ。つまりは、自分の心で作者の眞意をよく酌み取って説いてこそ、初めて詩が分かるというものだ。

 

 〔國を治めるのに〕大事なのは、唯、仁義だけです。仁義を無視して利益を第一に考えてはいけない。

 

 人間の心の中こそ、此のはかるということが特に必要なのですが、〔物をはかるのと違って〕最もはかりにくい難しいものです。

 

 注意せよ、注意せよ。自分から出たことは、必ず自分に振り返ってくるものであるぞ

 

 心のはたらきである志というものは、氣力を左右するものであり、氣力は人間の肉体を支配するものである。だから、志がまずしっかりと確立すれば、氣力は其れにつき従ってくるものだ。

 あくまで志を固く守って、氣力を無駄に損なってはならぬ。

 

 言葉は心の表れだから、きき方によっては、其の人の心の底がよく見抜けるものだ。

 

 一方に偏った言葉は、其の人の心が何処か覆われているので、物の一面だけしか見れないと判断する。取り留めの無い出鱈目な言葉は、其の人の心が何か惑わされて締め括りが無いからだと判断する。邪な言葉は、其の人の心が道理から外れて正しくないからだと判断する。言い逃れの言葉は、其の人の心が行き詰まっての苦し紛れからだと判断する。

 

 表面だけは仁政にかこつけながら、本當は武力で威圧するのが覇者である。身につけた德により仁政を行なうのが王者である。

 

 哀れみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、惡を恥、憎む心は義の芽生えであり、譲り合う心は礼の芽生えであり、良し惡しを見分ける心は智の芽生えである。人間に此の四つ(仁義礼智)の芽生えは生まれ乍らに具わっている。

 

 仁は人の最も安心して住める家であり、義は人の通るべき正しい道である。

 

 是非善惡を明らかに辨えなければ、到底我が身を誠にすることはできない。斯様に誠こそは〔人の天性から出るものゆえ〕天の道であり、万事の根本である。この誠をば十分に発揮しようと思い努力するのが、つま人間の道なのである。

 

 人物〔の善惡〕を見分けるには、瞳に勝るものは無い。瞳は正直なもので、其の人の心の中の惡を掩い隠す事ができないからだ。

 

 万事に恭敬な人は決して他人を侮らないし、自ら倹約(慎まやか)な人はなるべく他人から貪り取ろうとはしない。

 

 仕えると謂う事の中で、何が一番大切かと謂えば、親に仕えることが一番大切だ。守ると謂う事の中で、何が一番大切かといえば、自分の身を正しく守って不義に陥らない事が一番大切だ。

 

 世間の人の口が軽いのは〔自分の言葉に対して〕責任感が無いからだ。

 

 仁の眞髄は親によく仕える事。即ち考である。義の眞髄は兄によく仕える事、即ち悌である。智の眞髄は、孝悌と謂う二つの道の大切さをよく知って、しばしも此の道から離れぬ事であり、礼の眞髄は、この孝と悌との二つの道を調節して立派に整える事である。

 

 大德の人と謂われるほどの人物は、いつまでも赤子のような純眞な心を失わずに持っているものだ。

 

 あらゆる事物の道理に明らかで、人の履むべき道をばよく心得た人で、その行爲は心に深く根ざしている義から自然にあらわれ出たものであり、決して努力して無理に仁や義を實行したのではなかった。

 

 昔にさかのぼって、古の聖人や賢人を論じて友達とするものふだ。だが、如何に其れ等古人の作った詩を吟じ、其の著わした書物を讀んでも、其の作者の人物を知らないで一体よいものだろうか。だから、更に進んで其の古人の活動した時代を論究(よく批判して研究)していかねばならぬ。此れがつまり『尚友』即ち、『遡って古人を友達とする』ということなのだ。

 

 人間の本性みな善だ。ー本性が自然のままに発露すれば、人間は誰でも必ず善をなすはずである。人間なら惻隠の心、即ち他人の不幸を哀れみ悼む同情心を誰でも皆持っている。羞惡の心、即ち惡を恥じ憎む正義感は誰でも皆持っている。恭敬の心、即ち長者(目上)を慎み敬う尊敬心は誰でも皆持っている。是非の心、即ち善惡を見分ける判断力は誰でも皆持っている。

→惻隠の心は仁の德の発露、羞惡の心は義の德の発露

 恭敬の心は礼の德の発露、是非の心は智の德の発露

 

 天が万民を此の世に生み下し給うた時、全て事物があれば、必ず其処には一定の法則をあらしめた。かくて民は此の不易の常性に順えばこそ、皆此の美わしの德を好むのだ。

 

 

 

天命を識り、愉快に生き抜く。

 人は其の務めを果たす上で『趣味』を持つ。『趣味』とは理想や思いを付け加えて→實行していく「好んだり樂しんだりする」という意味にも受け取れる。更に一歩進んで人として生まれたからには、人としての『趣味』を持つ。社会の中で一人前の『趣味』を持って其のレベルが上がっていけば、其れに見合った成果が世間に齎される。『趣味』の有る行動であれば必ず其の仕事には心が籠もるに違いない。

 孔子も「理解する事は愛好することの深さに及ばない。愛好する事は樂しむ境地の深さに及ばない。」此れは『趣味』の極地と謂ってよい。自分の務めに対しては此の熱い眞心が無くてはならない。

 

孔子

「親を大切にして目上を敬う人間が上の者に逆らう事は滅多に無い。上の者に逆らわない人間が組織の秩序を乱す事は有りえない。」親や目上を先ず大切にするのだと教えた。

 「仁」ー物事を健やかに育む

 「義」ーみんなの爲を考える

 「礼」ー礼儀を身につける

 「智」ー物事の内實を見通す

 「信」ー信頼される  という五つの道(德)を押し廣げていく事で同情する心や恥の氣持ちを人に抱かせ礼儀やケジメ、勤勉で質素な生活を尊重するように教えた。

 江戸時代に「飾りげなく、眞面目で恥を知り信用や正義を重んじる氣風」が浸透して行く。そして人々の中に自分を向上させる爲に學問をするようになる。自身の心を磨く心の學問に力を尽くすようになる。

 

■愉快に仕事をすること

 仕事とは地道に努力していけば精通していくものだが、氣を緩めると荒れてしまう。大いなる愉しみと喜びの氣持ちを持って仕事・事業に携わっていく。精神が潑溂として愉快な氣持ちから愉しみを發見し、更に尽きない喜びを感じて仕事・事業を進める原動力とする事ができる。

 人が常に抱くべき「人道」とは何より良心と思いやりの氣持ちを基盤にしてる。仕事んは誠実且つ一所懸命に取り組み同時に深い愛情が無ければならない。

 

■天から与えられた天命に対して

 「恭」ー礼儀正しくする

 「敬」ー敬う

 「信」ー信頼する  

“人事を尽くして天命を待つ” 

 天地と社会との間に起こる因果応報の原則を「偶然に過ぎない」などとも考えず、此等を全て天から下された運命だと考えて「恭」「敬」「信」の氣持ちをもって臨んで行く。

 失敗したらお天道様から下された運命に任せたらよいのだ。“失敗しても飽くまで勉強を続けていけば、いつかまた幸運に惠まれる時が来る”成功や失敗の良し惡しを議論するよりも先ず誠実に努力する事。そうすれば公平無私なお天道様は必ず其の人に幸福を授け運命を開いて行くように仕向けてくれる。

 正しい行爲を道筋は天にある日や月のように、何時でも輝いて少しも陰る事が無い。だから、正しい行爲の道筋に沿って物事を行う物は必ず榮える。

 成功や失敗とった価値観から抜け出して超然と自立し、正しい行爲の道筋に沿って行動し続けるなら価値有る生涯を送る事ができる。社会を生きる上で中身のある生活をする。

 

※人は人としてなすべき事を基準として自分の人生の道筋を決めていかなければならない。だから失敗とか成功とか謂ったものは問題外なのだ。

 人は人として爲すべき事の達成を心掛け自分の責任を果たし、其れに満足していかなければならない。

 知惠有る者は自分の運命を作るというが運命のみが人生を支配するものではない。其処に知惠が加わって初めて運命を開いていく事ができるのだ。家康と秀吉はよく此の事実を証明している。  ー司馬遼太郎の言葉

 

 

※人間は弱い生き物ではなく芯があって強い、人間の意志には力がある。其の意志を持っているからパワーが満ちると強い。

 人間(じんかん)→仏教用語で人の住む世界。現世の事。

   (ひとま )→人のいない時。

   (ひとあい)→人付き合いや人に対する愛想の事で人愛(ひとあい)とも書く。

 

 人は一人では生きていけない。だから人との関わり合いが人間其のもの。人間関係が一番自分を磨いてくれるもの。人間=人愛という優しい響きの言葉と共に人と接していく謂う事が必要なのかもしれません。 ー“美人の日本語” 山下景子 著 よりー          

 

 

 

 

榮一が語る、天命。

渋沢栄一 天33格(火)心31格(木)艮15格(土)仁17格(金)全48格(金)

 バランスの取れた本当にイイ名前ですね。全格(善格)が48格で生まれながらの強運の持ち主で堅実一本の強固な精神と勤勉な努力家。多角の才能有り、知性と徳性を持ち、質実剛健な人柄で確実に発展し財と名を得る。常に先の先まで考えて行動する。

 心格も最大吉数の31格。仕事運も本当に強いですね。リーダーになると自分ひとりで突き進んでしまうところがあるので時に心のゆとりをもって周囲に接するとより強運になります。土台となる艮格も大吉数の15格。人生が人の縁で生かれます。ずっと良縁が続きます。元々大変良い名前を授かって、其れを最大限活かした人生を送ったからこそ、日本経済の土台を構築するような偉業をなし得たんでしょうね。

 名は『命』 澁澤は・・・「天命とは一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。」と謂っています。澁澤の名前はまさに其の天命を全うする素晴らしき名前です。

 

因みに今年の大河ドラマは大変盛り上がっていますが・・・澁澤役を演ずるのが 吉沢 亮さん。

吉沢 亮 天23格(火)心26格(土)艮10格(水)仁7格(金)全32格(木)

 全格32格で大きく飛躍を遂げる幸運数。芸能界でも一夜にして大スターになる星。若い時苦労も多いですが、その苦労が人生を重ねる事に自分の血肉となる将来は海外を見据えて大いなる飛躍が見込まれます。自惚れて身の丈以上の事をやろうとすると足元を掬われます。お酒と異性絡みで問題が起きる事があるので注意が必要ですね。周囲にあまり流されずに自分の信念を貫き己を信じて進んで行くと良いですね。お誕生日から観ても今年は自己の完成の年で仕事運も強いので大きく大成するのではないかと思います。

 この時代に合った良いキャスティングをしたのではないかと感じます。

 

■澁澤榮一は此のように語っています。

 「正しき行為」について「正しい行為の道筋は、天にある日や月のようにいつでも輝いていて少しも陰ることがない。だから、正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅ぶ。」と述べています。 人生は様々で、時には善人が悪人に負けてしまったように見えることもあるかもしれませんが、それはいずれはっきりと結果となって現れてきます。

 「一時の成功や失敗はある。しかし、それは長い人生の中では泡のようなものだ。成功や失敗の良し悪しを議論するよりも、まず『誠実に努力すること』が大事だ」と言っています。「正しい行為」に基づき行動し続けるなら、成功や 失敗などとはレベルの違う価値のある生涯を送ることができる。

 昨年来のコロナ禍で生き方、暮らし方、住まい方は大きく變化せざる状況になっておりますが、此のような時だからこそ原点に立ち返り自分の生きる意味や意義を考えみるのも良いかも・・・ですね。自分の“天命”は何か。思いを寄せてみる。

 

高杉晋作の言葉

 天のその人を労せんとする役割のままに人もわれも動くべきである。

 おもしろき こともなき世を おもしろく (晋作、辞世の歌)

 

時代が悪い、國が悪い、社会が悪い・・・周囲の事ではなく、自分自身の行動をどのようにするか。

・仲由(子路)が衛の國に贈った言葉

 努力しなければ成就しない。苦労しなければ功はない。衷心がなければ親交はない。信用がなければ履行されない。恭まなければ礼を失う。その五つを心がけることだ。

 “仁”は人編に「ニ」。人間が二人顔を合わせさえすれば、其の二人の間には二人がお互いに守らなければならぬ規約が生まれる。其れが「仁」だ。

 

 「思いやり」とは相手の立場に立ってものを考えてやる。其れは「まこと」「まごころ」「人の道」と言い換えてもよい。

・「仁遠からんや、我れに仁を欲すれば、斯に仁に至る」自ら目指す志について孔子は「老人には安心され、友達んは信ぜられ幼い者には慕われる。そんな人間になりなさい」と答えたという。

 

 「たとい千金をのべたる物にても、かろき人間壱人の命にはかへがたし」(たとえ千金を溶かした物でも、軽い人間一人の命んは代えられない)ー江戸時代 尾張藩七代藩主 徳川宗春が21ケ条の施政方針にまとめた「温故政要」に盛り込まれた言葉ー

 

■江戸時代の儒教の教え

 「自分を磨きよき家庭をつくり國を治め天下を平和にする」という段取りで統治していくというのが幕府の方針であった。

 「仁」ーものごとを健やかに育む

 「義」ーみんなのためを考える

 「考」ー親に尽くす

 「忠」ー目上に尽くす

 「信」ー信頼を得る    ・・・・といった道徳の王道を身につけていった。

 徳を押し廣げていくことで、同情する心や恥の氣持ちを人に抱かせ礼儀やケジメ、勤勉で質素な生活を尊重するように教えた。

 →かざりけがなく眞面目で恥を知り信用や正義を重んじるという氣風があった。

 

令和の時代は原点へ歸る時。もう一度、生き方・暮らし方・住まい方について考えるのもよい時かと・・・・

蓮は泥より出でて泥に染まらず

7月12日は七十二候「小暑 次候 蓮始めて開く」です。

 

 また建久3年(1192年)7月12日(旧暦)は源頼朝征夷大将軍に任じられた日です。

鎌倉幕府を開き武家の世の中を構築していくのですが、源家は3代で途絶えてしまいます。

 

格数で源氏3代を観てみると・・・

 

初代 源 頼朝:天15格(土)心30格(水)艮28格(金)仁13格(火)全42格(木)

 全格が42格で幸運、不運が極端に入れ替わる。チャンスに恵まれても精神力弱く、途中挫折してしまう。財と名を成すが周囲から必ず予期しない問題、トラブルが発生する。運勢が漸衰的に下降し実力が発揮できなくなる。対人関係、周囲の状態に常に注意が必要。

 しかも内面が30で水のエネルギー強いので悪い方に流れると急変転落の大凶となる。

 吾妻鏡で頼朝は落馬して命を落とす事になっていますが、名前の運から観ても暗殺の可能性が強いですね。

2代 源 頼家:天15格(土)心30格(水)艮26格(土)仁11格(木)全40格(水)

3代 源 実朝:天15格(土)心28格(金)艮26格(土)仁13格(火)全40格(水)

弟の義経は・・・

   源 義経:天15格(土)心27格(金)艮26格(土)仁14格(火)全40格(水)

 

と3人とも全格が40格なんです。因みに織田信長も全格40格です。

 40格は一時的に盛大であっても、波乱変動終局の悲運の極みとなる。0系統の格数で最も凶運が強いと謂われている。知的才能、高い人格、指導力、学芸の才能高いが一旦凶の流れになると凶事相に付きまとわられる。急変、急難注意。

 上記3人の歴史を観ても暗殺等悲運で終わっています。(信長も・・・)

 

 頼家、実朝の母 北条政子はどんな格数かと・・・

         天16格(土)心19格(水)艮11格(木)仁8格(金)全27格(金)

 全格は頼朝と同じ27格ですね。結婚は押しかけ女房でプライド高く。旦那を下に見る。離婚する人も多いとあります。仕事では脱線的事故を起こしやすい。家庭運が凄く薄い。苦労が多い。

 

 此のように凶を引き寄せる名前を持っていると人生の最後が不運になる事があります。頼朝は鎌倉幕府を開いた貢献者であるのに亡くなった後、きちんとお墓に祀られるのが、其の死後600年も後、安政八年(1779年)に頼朝の血を引いている島津藩主・島津重豪によってである。其れ以前の墓は何処にあったのか判然としていない。

 

 強い思いをもって幕府を立ち上げた頼朝は泥の中で美しく咲く蓮の花のように、幼少の大変な泥に塗れたような生活から一気に武士の棟梁として美しく花を咲かせました。しかし妻政子の北条家の策略によって、其の家系は途絶えさせられる事になってしまいました。

 無念だったに違いないと思います・・・・・・

 

来年の大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ですね。どのように描いてくれるのか、今から楽しみです。

 

 

 

きのふ今日とは思はざりしを

如是我讀・・・・

    →高田崇史『毒草師』より

 

伊勢物語

「昔ありける男」という一人の主人公の元服から終焉に至る生涯を綴った、ほぼ架空の物語

内容は在原業平の歌を中心に、その他の歌も交えながら物語化した。

900年頃「古今和歌集」編纂の頃原型が成立した。以後「後撰和歌集」編纂の950年頃に大体の形ができた。(正式な成立年代、作者は不詳)

源氏物語狭衣物語などによれば、当時の人々は「在五が物語」「在五中将の日記」等と呼ばれていた。在五は業平の事。

 

業平が執筆、編集したのではないかとも言われているが、江戸時代中期の契沖や賀茂真淵らは業平説に反対。理由は、第十一段に、 

忘るなよほどは雲ゐになりぬとも 空ゆく月のめぐりあふまで ー橘 忠幹「拾遺集」が収められいるが、この歌は業平が没後の詠われたので、業平が執筆、編纂したのは無理ではないかというもの。

 

伊勢物語と名付けたのは

 ・藤原継継蔭の女(三十六歌仙の一人)の父親が伊勢守であった為に伊勢と呼ばれた。この女性が「伊勢物語」の一部を増補したと言われている為。

 ・この物語の非常に重要な部分が伊勢斎宮と業平の密通事件が、此の物語の中でも重要ば場面であるという意味で「伊勢物語」とよばれるようになった説もある。

 

 業平が「伊勢物語」を書いたのか? わざと時代をずらしたり、誤魔化したりした歌を入れる事で自身の思い出を語る。自分の過去をまるで架空の物語のようなふりをして残した。そして後世の人々が其れを補足するような形で『男』が業平と特定できるような物語を挿入したのでは。

 

在原業平=天16格(土)心23格(火)艮18格(金)仁11格(木)全34格(火)

     全格34は凶数で分裂悲運数で災難が降りかかる。努力を積み重ねても最終的

     には躓く成功しても安泰ではない。

     成功運としては大吉の強い力を持っています。学術技芸の知的才能を発揮す

     る事で好機を得る。希望達成の強運を引き寄せる。

     成功運に強運を持っているのですが、土台となる基礎運は短氣を起し、自我

     心を強くすると周囲との軋轢多く孤立。神経衰弱となり急変転落となる。慎

     重な行動が必要となる。社会適応力も明朗な性格で人に好かれるが努力の割

     に報われない事がある。精神的に不安定で焦るとトラブルに発展するとあり

     ます。

 

伊勢物語は・・・・

 伊勢人は僻事す=伊勢人は間違いを起す →伊勢物語は「僻事物語」

 風俗歌でも「伊勢人はあやしきものをや」→「妖しき物語」

 と当時の人々に思われていたかもしれません。

 

業平が二条の后(藤原高子)を攫って逃げる話 →伊勢物語第六段 『鬼一口』

其の時、業平が詠んだ歌

ー白玉か何ぞと人の問ひしとき 露とこたへて消えなましものをー

 高子との事件が原因で藤原基経達に捕まった業平は都を追放されて、武蔵の國から下総の國の境の隅田川までやって来て詠んだ歌 

ー名にしおはばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやー

 

其の場所に架かったのが「言問橋

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言問団子が有名ですね。

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伊勢物語古今和歌集のリンク

伊勢物語

ー世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからましー

表の意味:この世の中に桜さえなければ、花が咲いたの散ったのという事を氣にしない

     で生活できる。そうなればどんなにのどかに暮らせることだろうか。(それ

     ほどに桜の花は私の心を惹き付けるという花の美しさを逆説的に表した歌)

桜=櫻→木偏に貝が二つ、そして女『ニ貝(階)の女が木(氣)にかかる』=貝の首飾りを身に着けた女の人という意味。上記の歌も「桜」を「女」として読むと・・・女性さえいなければ、この世はもっと心穏やかに過ごせるのに・・・と謂う意味にもとれる。

古今和歌集

ー年経ればよはひは老いぬしかはあれど 花をし見ればもの思ひもなしー

意味:自分はすっかり年老いてしまったけれど、この桜の花を見ていれば、何の憂いもない事よ

詞書:染殿后の御前に、花瓶に桜の花を挿させたまへるを見てよめる 前 太政大臣

 

此のニ首は「桜」で繋がっています。

 

 古今和歌集の歌は、前太政大臣藤原良房天皇家に自分の血縁をどんどん送り込み、他の氏族たち(業平たち)を悉く追い落としてしまった男。

染殿后は良房の娘、明子。これをふまえて意味を考えると、明子が文徳天皇中宮となり惟仁親王(後の清和天皇)を産んでくれた。自分(良房)は老いてしまったが『桜=明子』を見ていれば、これからの藤原家に関して何の憂いもないことよ。

 この事を鑑みて伊勢物語の歌を讀むと・・・・この世に『桜』=『明子』さえいなければのどかに春を迎える事ができる。明子批判、つまり藤原氏批判。

 古今和歌集の撰者は紀貫之紀友則たち、こちらも良房によって朝廷の片隅に追いやられた人々。

 

在原業平は毒殺された?

 藤原氏に楯突いた業平を藤原氏は安穏と暮らさせ平和な死を迎えさせなかったのではないか。

 清和天皇の皇后と駆け落ちまでしている業平を親切にするほどお人好しではなかっただろう。

 多分、「冶葛」で殺されたのではないか。奈良県正倉院聖武天皇崩御後、光明皇后によって献納されています。初め献納された冶葛は約14kgあった。756年に献納。其れ以降百年たらずでわずか880g程度まで減ってしまった。

 伊勢は不吉の名称→伊勢は此の世のモノではない この話は、伊勢にしておこう(この話はなかった事にしよう〈彼岸の話にしてしまおう〉)

藤原氏側は業平の怨霊を恐れ、鎮魂の意味で業平の物語を編纂し「伊勢物語」と名付けたのではないか。

 

廻り巡るよ、天照大神は周る。

本日7月10日は新月(朔月)舊6月1日。新しい月の始まりですね。

 

如是我讀・・・・

 

昨日は天照大神は当初全く尊敬される神ではなかったと謂う事を書きました。

天照大神伊勢神宮内宮に鎮座するまで約60~90年かけて24ケ所巡る事になります。

 

元々伊勢神宮は「祠」→「渡遇宮」(垂仁天皇時)→五十鈴宮(神功皇后時)→伊勢大神の祠(継体天皇時)→伊勢の祠(敏達天皇時)→神宮(用明天皇即位以降 6世紀後半)→大きな社が出来るのが天武・持統天皇

 

日本書紀記載

 崇神天皇6年 天照大神と倭大国魂の二注の神を並べて天皇の大殿の内に祀っていたが、此等の神の勢いを恐れて共に住んでいられなくなった。天照大神豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祀り神籬を建てた。日本大國魂神(倭大国魂神)を渟名城入姫命に託して祀らせたが渟名城入姫命の髪は抜け痩せ細り祀る事が出来なかった。

 垂仁天皇25年 更似還りて近江國に入りて東美濃を廻りて、伊勢國に到る。時に天照大神倭姫命に誨へて曰く 是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり 傍國の可怜し國なり 是の國に居らむと欲ふとのたまう。故、大神の教の随に其の祠を伊勢國に立てたまふ。

 

仮設

 崇神天皇は百姓の流離・背叛が起こったから天照大神等を遷座したのではなく、二柱の神を大殿から放逐した為には百姓達が叛、或いは憤って離反した。崇神天皇の其の有無を言わさぬ追放に対して一般民衆が怒りの声を上げたのではないか。

 

倭姫命世記 ー天照大神がどの様なルートで60~90年かけて24ケ所巡ったか

 

 1.崇神天皇即位6年 倭の笠縫邑に磯城の神籬を立てて天照大神又は草薙剣を遷し

   まつる皇女 豊鋤入姫命をして斎き祀らしむ 大神神社摂社 檜原神社

 2.崇神39年 但浪の吉佐宮に遷幸(京都府宮津市 元伊勢籠神社

 3.崇神43年 倭國 伊豆加志本宮(奈良県桜井市 与喜天満宮

 4.崇神51年 木乃國 奈久佐濱宮(和歌山市 日前・國懸神宮

 5.崇神54年 吉備國 名方濱宮(岡山市 伊勢神社)

 6.崇神58年 倭國 彌和乃御室嶺上宮(奈良県桜井市 大神神社

 ※此処から、倭姫が天照大神に付き添う

 7.崇神60年 大和國 宇多秋宮(奈良県宇陀郡 阿紀神社

 8.其の後 佐佐波多宮(奈良県宇陀郡 篠畑神社)

 9.崇神64年 伊賀國 隠市守宮(三重県名張市 宇流冨志禰神社)

 10.崇神66年 伊賀國 穴穂宮(三重県伊賀市 神戸神社)

 11.垂仁2年 伊賀國 敢都美恵宮(三重県伊賀市 都美恵神社)

 12.垂仁4年 淡海國 甲可日雲宮(滋賀県甲賀郡 頓宮)

 13.垂仁8年 淡海國 坂田宮(滋賀県坂田郡 坂田神明宮

 14.垂仁10年 美濃國 伊久良河宮(岐阜県本巣郡 天神神社)

   15.其の後 尾張國 中嶋宮(愛知県一宮市 酒見神社)

 16.垂仁14年 伊勢國 桑名野代官(三重県桑名郡 野志里神社)

 17.鈴鹿國小山宮、或いは奈其波志忍山宮

 18.垂仁18年 伊勢國 阿佐加藤方片樋宮(三重県津市 加良比乃神社)

 19.垂仁22年 伊勢國 飯野高宮(三重県松阪市 神山神社)

 20.其の後 伊勢國 佐佐牟江宮(三重県多気郡 竹佐々夫江神社) 

 21.垂仁25年 伊勢國 伊蘇宮(三重県伊勢市 磯神社)

 22.其の後 伊勢國 瀧原宮三重県度会郡 瀧原宮

               →伊勢神宮遥宮と呼ばれている別宮

    此の間に伊勢國 矢田宮に遷幸という説も有る。

 23.伊勢國 家田田上宮 ー伊勢神宮 神田

    此の間に伊勢國 奈尾之根宮に遷宮という説も有る。

 24.垂仁26年 伊勢國 五十鈴宮に遷宮 ー伊勢神宮内宮

   また其の後、垂仁27年 志摩國 伊佐波登美之神宮を造り摂宮となした。ー三重

   県志摩郡 伊雑宮とされる。(現在 志摩國一宮)

 また、猿田彦神社伊勢市宇治浦田町)祭神:猿田彦命・大田命 →垂仁天皇の御代、倭姫 神宮御鎮祭の地を求めて巡歴され猿田彦大神の裔 太田命之を迎え、五十鈴川上の霊域を献り伊勢神宮の創建となった。其の子孫 宇治土公 玉串大内人に任じられ累代奉仕した。

 

■何故、24ケ所も巡幸し又、その資金は何処から出ていたのか?

 古代の産鉄地、河流・湖沼の水辺で「スズ(錫)」の採取地を廻っていた。または遊女(巫女の古い形態)として資金を捻出していたのではないか。(当時は天照大神は殆ど力の無い「神」だから朝廷を追い出され場所を遷しても歓迎されなかった)

 最終的に伊勢の地に落ち着いたのは、伊勢の地が水銀、スズ(鉄)の産地として必要だった。

 

※豐葦原瑞穂國=葦が豊かに繁っている稲穂の實り豊かな國(日本)=「葦」の根から採れる鉄によって鉄器を造り、稲田を開墾した。また水中に含まれる鉄分は稲の生産を促進させる。葦原は稲を育てるのに最適地。伊勢は「スズ」を多く生産できる。→五十「鈴(スズ)」川

猿田彦は此の地の地主神ー「塞の神」「塞=サヒ(鉄)」の神だった。此の地が必要だった天皇家猿田彦から伊勢の地を奪ったのではないか? →伊勢神宮外宮は豊受大神は実は猿田彦の怨霊を鎮めるために作られたのではないか。

 

壬申の乱で此の地の状況を熟知した天武天皇は「鉄」「水銀」を自分のモノのするために伊勢神宮を整備し此の地を支配したのではないか。

 

吉野裕子氏は「伊勢神宮大和朝廷にとっての常世、しかも皇室専用の神界だった」

※伊勢は「常世」=黄泉の國だった。

 天皇家は「御杖」としての女性を天照大神に「貢奉」っている。天皇の代替わり毎に置かれた「斎宮」(いつきのみや)。正しくは「斎王」と謂う。その斎王の住居が斎宮と呼ばれていた為に斎宮の主人という意味から「斎宮」となった。其の嚆矢は豊鋤入姫命、次は倭姫命。伊勢に置ける祭祀は物部氏の主導により祭宮の忌部氏が行っていた。しかし蘇我氏が実権を握ると中断されてしまった。そして天武天皇が即位すると、斎王の派遣が復活した。

 

 

天皇の皇祖神 天照大神

天照大神 格数:30格 =0の格数は上昇運も強ければ、下降する時も大きく下がる。 

            急転直下の数字。今が幸せでも大きな不幸に見舞われる事が

            ある凶数。

 格数では天照大神は良い名前ではありません。0の数字は「水」すべてが流れてしまう。定まらない。天皇家の祖先神なんだけどね。

 

如是我讀・・・・

 

・皇室にとって非常に重要とされる八注の神々「神魂・高御魂・生魂・足魂・玉留魂・大宮乃賣・大御膳都神・辞代主」で天照大神は入っていない。本来の皇室の祖神は”高皇産霊神”であり、天照大神は後から祖神として祀り上げられたのではないか。

菅原孝標女更級日記” ー天照大神を年念じ申せといわれても「いづこにおはします神 仏にかわは」などさはいへど(天照大神がどこにいらっしゃるか 神なのか仏なのかすらも分からなかった)と書かれている。

藤原倫寧女 右大将 藤原道綱の母”蜻蛉日記” ー陸奥に下る人からの河伯ー 川の神・河童の霊験で雨が止みそうだという歌に答えて「今ぞしるかはくときけば君のため あまてる神の名こそありけれ」(今分かりました 河伯というのは天照大神の名前だったのですね)

柿本人麻呂天照大神の事を”天照らす日女(ひるめ)の尊”(天照大神とは呼んでいない)→天照大神の名称が出来ていなかったのでは。

・アマテルムカツヒメ=天の彼方に遠ざかり向こうの津にいる姫(彼岸にいる神)=死に体

 

※10世紀の平安貴族達は天照大神の存在を殆ど知らなかった 或いは知っていても水神や河童という程度の認識しかなかったのではないか。大神(おおみかみ)→大水神(おおみかみ)

大化の改新以降、天智天皇までの時代で只の一度も天照大神伊勢神宮を祀ったりしたよいう事実は無かった。伊勢神宮どころか天照大神も存在していない。 神宮の創建は文武天皇の時代文武天皇2年(698年)12月29日と「続日本紀」記されている。

 

天照大神が祀られている「伊勢神宮内宮」→伊勢は彼の世に最も近い土地

 ・景行天皇の時代 「僻」と書いて「イセ」と読ませていた。

 ・伊勢する=無かった事にする。

 ・伊勢人は僻事す=道理に外れている。風變わり →「伊勢物語」の題名の語源

 

仮設

 天武・持統天皇の時代になり歴史書を作るために豪族側の立場からまとめられた神話や伝承を天皇の立場から書き直した。(天皇にとって”利”になるように改作(嘘)で創作された)

 古事記日本書紀は政治的創作物だった。持統天皇が自分の姿をオーバーラップする形で”天照大神”をクローズアップさせた。(律令國家における宗教的権威の基盤作りとして、そして伊勢神宮の造営と祭祀が完備される。其れまでの伊勢神宮は男性神「天照=饒速日命」が祀られていたのではないか?

 また明治天皇が突然伊勢神宮公式参拝を始める。明治政府の政策として天照大神が皇室や日本人全ての祖神として祀り上げられるようになる。明治天皇公式参拝の約3ケ月後東京招魂社(現靖國神社)が創建された→政治的意図が働いていたか?

 

 元々は”天照神”(男)”大日霊貴”(女)に分かれていたのではないか? 天照が太陽神で大日霊貴が太陽神の妻であり、天照を祀る巫女=日の巫女(ヒミコ)だった。

 持統天皇の時代に天武天皇(現人神)の日女(巫女)としての持統天皇が次の天皇になるにあたり天照(あまてる)から天照(あまてらす)大神としての物語を造り上げた。

 

→672年の壬申の乱に際して天武天皇伊勢神宮天照大神を望拝(たよせにおが)んで勝利した。即位後大来皇女として伊勢に送り神宮の職制を整備した。

 持統天皇は690年に大神宮御遷宮 692年豊受大神宮遷宮を実施し20年に一度の「式年遷宮」を定める。

 

時の権力者によって事実は捻じ曲げられる。何時の時代も同じ。

令和の今・・・コロナ禍の日本。東京は4度目の緊急事態宣言の発令となる。政府に踊らされるのではなく。私達は歴史を振り返り今どのように行動しなくてはいけないのか考えなくてはいけない。自分の目でしっかり觀る事。徹底的に調べる。頭を使うことが重要ですね。

 

事実をいくら積み上げても、真実には至らない ー司馬遼太郎